2018年10月8日月曜日

大神神社の祀神は事代主。長髄彦はその子孫か。

陶津耳命(すえつみみのみこと)、別名大陶祇命(おおすえつみのみこと)、三嶋湟咋(みしまみぞくい)とも呼ばれる。

陶津耳命は、陶邑窯跡群がある茅渟県陶村を支配地とする須恵器製作職人集団の族長とみられる人物である。

陶邑には、陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)がある。主祀神は、高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)、八重事代主命、菅原道真公である。摂社に大田田根子も祀られている。

陶荒田神社は、陶津耳の子孫である荒田彦宿禰(あらたひこのすくね)創建とされている。荒田彦宿禰の先祖は、剣根命(つるぎねのみこと)、その父は、玉依彦(たまよりひこ)、その父が陶津耳命とされる。

陶津耳の父は天押立命(あめのおしたてのみこと)、その父は伊久魂命(いくむすびのみこと)、その父が高魂命(高霊産巣日命)である。

陶津耳には、息子の玉依彦(たまよりひこ)のほかに娘の活玉依媛(いくたまよりびめ 玉櫛媛ともいう)があり、活玉依媛は、三輪山の神(古事記によると大物主・大物主=事代主)との間に天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと 一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)を生んでおり、その子孫が大田田根子である。
活玉依媛は、事代主との間に媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んでおり、媛蹈鞴五十鈴媛命は皇祖神武天皇の皇后となっている。

活玉依媛(玉櫛姫)と媛蹈鞴五十鈴媛命は、大阪市茨木五十鈴町の溝咋神社において主祭神として祀られている。
茨木市によると
  • 溝咋神社はもともと、上の宮と下の宮に分かれていましたが、現在あるのは下の宮で、上の宮は、安威川を隔てた北側にありました。日本書紀神武天皇記によりますと、主神の一人である五十鈴媛命は、わが国初代天皇である神武天皇の皇后になられた人と記されています。また、玉櫛媛命は五十鈴媛命の母で、父は、この三島溝咋耳命で、広くこの地域を治めていた人であります。元来、溝とは“水"が命であり、耳は“長"を表すことから、溝咋耳とは、農業神の意味を持っています。この溝咋耳神が、いかに信仰されたかは、今も立派に残されている松並木の馬場先を見ても明らかです。(茨木市HPから引用)
とされている。陶津耳命は、もともと、溝咋神社周辺を支配地にしており、その子孫の劔根命が陶荒田神社付近に移住したとみられる。

天日方奇日方命は、鴨王(かものきみ)とも呼ばれ、三輪氏・賀茂氏の祖とされる。神武天皇2年2月2日に宇摩志麻治命とともに申食国政大夫(けくにのまつりごともうすまちぎみ)に任命されたとされる。天日方奇日方命と宇摩志麻治命はいずれも事代主の息子又は孫であり、神武王朝の政治を取り仕切ったことは注目に値する。


玉依彦の息子の剣根命(つるぎねのみこと)は、神武2年、葛城国造に任命されている。
また、陶荒田神社を創建した荒田彦宿禰の娘である葛媛は、武内宿禰の妻となり、葛城襲津彦を生んでいる。

古事記が言う大物主は、大神神社の主祭神である。大物主は、大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」と言われるが、大神神社は、大己貴神(大国主の別名)を配祀している。大国主を大物主として祀り、重ねて大己貴神として祀るというのはおかしな話である。『先代旧事本紀』は、天日方奇日方命の父を八重事代主神としており、日本書記は、父の名は不明だが祖父は事代主神であるとしている。
当初、大物主=大きな物部の主だから饒速日かと考えたが、事代主も物部氏の祖先である。長髄彦は事代主の子。であるならその妹三炊屋媛(ミカシキヤヒメ、三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛、登美夜毘売、御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命)も事代主の子だろう。饒速日と結ばれて三炊屋媛が生んだのが物部氏の祖であると宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)である。それなら大きな物部の主は事代主ともいえる。

大神神社の別宮とされている村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は、事代主の妻である三穂津姫命(別名 弥富都比売神)を祭っている。

陶荒田神社は、高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)のほかに八重事代主命を祀っている。八重事代主が劔根命の祖先であることを示している。

大神神社は、崇神天皇が祀らせたものだが、崇神天皇は、出雲から神宝を奪っており、疫病がそのたたりと考え、出雲の神を祀らせたと考えればつじつまが合う。

長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったといわれる。
長髄彦は当初饒速日が天下った磐船神社の近くの生駒山山麓を本拠としていたが、神武が大和盆地に侵入した当時は、鳥見山(とみやま)山麓を本拠地にしていたようである(長髄彦の別名はトミノナガスネヒコ)。長髄彦は、殺されたとされているが、実は東北に逃げた又はその兄の安日彦(アビヒコ)が東北に逃げて安部氏を名乗ったとされている。安部氏はその後大和朝廷に組み込まれているが、大和での安部氏の本拠地が鳥見山の山麓にあり今でも安部という地名が残っている。
大神の近くである。纒向遺跡(まきむくいせき)は、長髄彦と饒速日の都であり、それがゆえに大神神社の地に事代主が祭られたとすれが合点がいく。


(参考リンク)
葛城の古代
陶津耳と三輪の大物主
櫛御方命
せんせん 大物主神
長髄彦の後裔とその奉斎神社
出雲王朝の五種の神宝

2018年7月7日土曜日

あまり知られていない岐阜の重要史跡メモ

〇飛騨=高天原
 飛騨伝承によると、飛騨=高天原とされる(日本人のルーツ飛騨)。

  • 高天原は、1か所のことを指すのではなく、高地盆地を本拠とする縄文時代から続く有力部族の連合体を意味しているように思われるが・・・。飛騨はその中心であった可能性がある。
飛騨一之宮は、水無神社(みなしじんじゃ)である。

 水無神社のご神体は、その近くの位山(くらいやま)だ。
 位山には、神武天皇が神から王位を授かった場所との伝承がある。
 位山にはイチイの原生林がある。太古から、新しい天皇が即位すると、位山のイチイで作った笏が朝廷に献上され、即位の礼で使用されている。なんと、令和の今上天皇にも献上されている。
            
 ※パワースポット飛騨の霊峰位山


〇南宮大社(地図)
美濃国一之宮。金山彦を祀る。創設は神武天皇の時代にさかのぼる。古くは仲山金山彦神社といわれ、美濃国府が置かれていた府中(垂井町)に祀られていたとされる。現在地の二キロほどのところである。崇神天皇のとき、現在の場所に移り、国府の南に位置することから、南宮大社と呼ばれるようになったと伝えられる(南宮大社HP)。
 金山彦は、神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)とともに鉱山の神として信仰されている。
 金山彦は、美濃の国守であり、中山道を開いたとされる(ホマツタエから引用、「濃尾両国通史」にも美濃の祖伸とある)。
 一説に、古代(古墳時代)青銅器の部族を渡来系の鉄器・鉄剣を持つ部族が戦力で青銅器部族を圧倒して打ち破った。奈良・倭国部族に属した鉄器・鉄剣を製造出来る「金山彦命」は「戦で破れない」の代名詞となり、後に「不破」の姓を賜った・・とある。金山彦命(一族)は後年「不破の関」の関守となり、不破郡関ケ原から垂井・大垣・安八・神戸・養老・墨俣にいたる広範囲を治める見野命(美濃領主)として、現在の岐阜県 西濃地域を領地としていたとされる(不破姓の由来)。
 天津国玉(アマツクニタマ)は、金山彦の子である(引用ホマツタエ)。
 天津国玉の子が天若日子(アメワカヒコ)。
 南雲大社は、金山彦は天照大御神の兄であるとしている。
 不破には、太古に鉄を産出した金生山(かなぶやま)がある。
 その近くには昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)がある。
その上に登ってみてほしい。冬には、伊吹山から、立っているのが困難なほどの強風が吹きつけてくる。たたら製鉄に最適の風である。

〇喪山(もやま)
 天若日子は、高天原を裏切ったとして、高御産巣日神に射殺されている(古事記の記述・・言霊より)。阿遅志貴高日子根が天若日子の喪屋を剣で切り、足で蹴飛ばし、美濃国藍見河の河上まで飛んで喪山となったとされているが、その場所は、美濃市の大矢田神社の地と比定されている(地図)。
 
 大矢田神社の創建は孝霊天皇の時代。深山に悪竜が棲み付き、困った里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。 その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ、悪竜を退治してくれた。平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。
 その摂社喪山天神社は、もともと大矢田神社の地にあったのを移転したものとされる。
 その社伝によると、天照大神に豊葦原中国の平定の為遣わされた天若日子命は、大国主命の娘下照比賣命を娶り、大矢田の里に到り田畑を開き、人民を繁殖してこの地に住んだとされている。

 その近くには天若日子の妻である下照姫をまつる上神神社がある(地図)。 社由緒書きによれば、下照比売と天稚彦命は力を合わせて中津国の平定に大きな功績を残し、この里にお住居になつた神と伝えている。
 さらにその近くには真木倉神社がある(地図)。天若日子と下照姫の子である御手洗姫命(みたらいひめのみこと)の生誕地とされており、御手洗姫命が主祭神として祀られている(飛騨*美濃*尾張∞火と水の調和コミュの大矢田の喪山伝説)。
 なお、垂井町の葬送山古墳が喪山との説もある(KISSOこぼれネタVOL.64)。

〇日子坐王の墓(地図)
 日子坐王(ひこいますのおう)は、旦波の国で玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」後、美濃国各務(かかみ)郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくし、この地で死亡したとされる。その子の八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)=神大根王(カムオオネノミコ)が御陵を清水山の中腹に築いた(引用 レッツ不思議マガジン)。
 日子坐王は、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子である。

〇伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)(地図)
 日子坐命とその子の八瓜入日子(神大根王)を祀る。近くに日子坐王の墓がある。
 神大根王は、五十瓊敷入彦の祖父丹波道主の弟であり、三野(美濃)本巣国造の祖。長幡部連の祖。
 神王根王は、本巣市の神王神社 (こうのうじんじゃ)に祭られている。この付近が本拠地であったらしい(地図)。

〇縣主神社(あがたぬしじんじゃ) (地図)
 日子坐王を祀る。当地を治めた鴨県主が祖先の彦坐王(=日子坐王)を祀ったものとも、彦坐王がこの地にやってきて治めていたのだが、その子孫が県主となり創建したともいわれる。
※神大根王の子孫・長幡部連関連
 長幡部神社 埼玉県児玉郡上里町長浜
 長幡部神社 (常陸太田市)

〇伊奈波(いなばじんじゃ)神社
 日子坐王のひ孫である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を祀る。
 社伝によると五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたとされる(wikiより引用)。
 なお、現在ある社地は齊藤道三により移転されたもので、もともとは稲葉山の丸山付近にあったとされる(丸山神社)。
※五十瓊敷入彦命
 父は垂仁天皇(すいにんてんのう・活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと))、母は、丹波道主(たんばのみちぬし)王の娘・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。丹波道主の父は開花天皇子の日子坐王。母は、天之御影神(天津彦根の子)の娘の息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)である。
 景行天皇は五十瓊敷入彦の弟。倭姫は妹。

〇伊久良河宮(いくらがわのみや)(地図)
 倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照大神を祀り各地を転々している途中、天照大神天照瑞穂市居倉(いくら)の伊久良河宮に4年間鎮座した。
 元伊勢の場所については、人文研究見聞録が詳しい。


〇両面窟(りょうめんくつ)地図
 両面宿儺(りょうめんすくな)が住んでいたとされる洞窟。近くに飛騨大鍾乳洞がある。
 関市の日龍峰寺(にちりゅうぶじ)は両面宿儺が祠を建立したのが始まりとされる。
 飛騨千光寺(地図)には、円空が作った両面宿儺像がある。


〇景行天皇泳宮(くくりのみや)跡 地図
 景行天皇は、景行4年、八坂入彦の娘、弟媛(おとたちばなひめ)を妃にしようと訪れた際の行宮。弟媛にふられたので、代わりにその姉八坂入媛(やさかいりひめ)を連れ帰って妃にした。

〇八剱神社(やつるぎじんじゃ) 地図
 八坂入彦を祀る。近くに八坂入彦の墓とされる大萱古墳がある(写真)。
 八坂入彦は、崇神天皇と尾張大海媛(おわりのおおしあまひめ)の子。崇神天皇の命令で倭大国魂神を祀ったが髪は抜け落ちて体も痩せてしまい祀ることが出来なかったという渟名城入姫命(ぬなかのいりひめのみこと)は、その妹である。
 尾張大海媛は、饒速日の六世孫建宇那比命(たけうなひのみこと)の娘であり、尾張連の祖である。八坂入彦は、饒速日の子孫ということになる。
 八坂入彦は、尾張より東濃に入り、久々利の地を開拓し、久々利で亡くなったとされる(濃尾両国通史)。

〇猿投神社(さるなげじんじゃ)地図
 小碓尊(おうすのみこと・日本武尊)の双子の兄、大碓命(おおうすのみこと)を祀る。日本書記によると、大碓命は、父景行天皇から蝦夷平定を命じられたが、嫌がって逃げ隠れたため、美濃国に封じられた。そして大根王(三野国造の祖)の娘の兄比売・弟比売姉妹を妻とし、兄比売とは押黒之兄日子王を、弟比売とは押黒弟日子王をもうけ、押黒之兄日子王は三野之宇泥須和気の祖に、押黒弟日子王は牟宜都君らの祖になったという(本拠地は関市の弥勒寺跡付近)。
 大碓は、猿投山で毒蛇にかまれて死亡したとされ、近くにその墓がある。

〇飛騨一之宮水無神社 地図
 祭神は、御年大神(みとしのおおかみ)=饒速日である。飛騨は古くから饒速日一族の支配地だったことを示している。

〇養老の瀧 地図
 飲み屋のことではない。元正天王が行幸した折、養老の瀧の水で、傷がなおるわ、白髪が黒くなるわ、若返るわで、驚嘆し、元号を「養老」に改めたといういわくつきの瀧である。霊泉が酒になったという養老の孝子の逸話あり。たしかにこの付近の酒造の酒はうまい(養老乃瀧と酒伝説の真相とは)(美濃菊)。

〇明智城址
 明智光秀は、可児市にある明智城で生まれた(明智城 (美濃国可児郡)参照)。
 明智氏は、清和源氏土岐氏の分家である(明智氏参照)。
 齊藤道三により土岐氏が滅ぼされた後、道三に仕えたが、齊藤義龍により美濃を追われて流浪の身となり、織田信長に仕えるに至った。
 明智光秀は、天王山で死だことになっているが、死んだのは影武者で、本人は、岐阜県山県市中洞に逃れ、荒深小五郎と名乗ってこの地に隠れ住んでいたという伝承があり。光秀の墓がある。
 




 

2018年6月10日日曜日

清和源氏系譜 明智氏は、清和源氏嫡流 源頼光の子孫だ。

武家として知られる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王が臣籍降下により源姓を賜り源経基(みなもとのつねもと)と名乗ったことに遡る。
 
 清和天皇(56代)
   ⇓
 貞純親王
   ⇓
 経基王=源 経基
(938年、武蔵介として現地に赴任。平将門の乱の原因を作る。藤原純友の乱にも参戦。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。京都の六孫王神社に祭られている。)
   ⇓
 源 満仲(みなもとのみつなか)・・多田源氏 
 藤原摂関家に仕えて、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。二度国司を務めた摂津に土着。多田荘に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した。兵庫県川西市の多田神社に居館があった。
 ↳①長男・源 頼光(みなもと の よりみつ)(らいこう)・・摂津源氏
  • 父満仲より多田の地を相続、藤原道長に仕え、但馬国、伊予国、摂津国(970年)の受領を歴任する。
  • 丹波大江山での酒呑童子討伐で名をはせる。
  • (1001年)には美濃守を兼任。同時期に尾張守となった大江匡衡と親交をもった。
  • 子の頼国の子孫が美濃土岐郡に土着。土岐氏を称した(美濃源氏)。
  • 岐阜市瑞浪市土岐町の八幡神社一帯がその本拠地である。
  • 明智氏は、土岐氏の支流である。明智氏の本拠地は、岐阜県恵那市明智町の日本大正村一帯である。
 ↳②二男・源 頼親(みなもと の よりちか)・・大和源氏
   土佐に流されている。
  • 兄・頼光と同じく関白の藤原道兼に、その死後は道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。
  • 河内に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館(羽曳野市の壷井八幡宮付近)を建てる。平忠常の乱を平定し、板東平氏の多くを配下加え、清和源氏が東国で勢力を広げる契機を作った。
  • この頼信の系統が足利源氏、新田源氏、木曽義仲、源頼朝につながる。

  




2018年5月26日土曜日

秩父と多治比氏との関係


 秩父は、旧石器時代からの歴史の古い地域である(秩父市の歴史)。東国では最も古くから大和朝廷の支配が及んだ地域であり、崇神天皇の時代、知知夫国(ちちぶのくに)と呼ばれ、八意思金命(やえおもいかねのみこと)の10世孫の知知夫彦命(ちちぶひこ の みこと)が初代知々夫国造に任命された(国造家一覧参照)。
 秩父神社は、知知夫彦命が祖神である八意思兼命を祀ったことに始まるとされ、大神神社とならぶ日本最古級の神社である。
(秩父神社HPから引用)

 秩父神社の例祭である秩父夜祭は、知知夫国に知知夫彦が大神を祭ったとされる時代か、それ以前から神奈備山である武甲山への信仰として行われてきたものが起源ではないかと言われる。

多治比氏と秩父との関係は、黒谷の聖神社(ひじりじんじゃ)付近で銅が発見されたことに始まる。第43代元明天皇の時代の西暦708年、黒谷で日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、郡司を通じて朝廷に献上された。喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命し、勅使として当地へ派遣した。三宅麻呂は、聖神社地へ神籬を遷し、採掘された和銅13塊を内陣に安置し金山彦命と国常立尊、大日孁貴尊、神日本磐余彦命の4柱を神体とし、天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めた(和銅会報HP参照)。
 聖神社付近には、大野原古墳群がある。築造時期は7世紀後半から8世紀初頭と見られ。聖神社には大野原古墳群出土の鉄刀、鐔、鉄鏃、蕨手刀、円筒埴輪、和同開珎が保存されている。原谷小学校の校庭の円墳からは蕨手刀(わらびてのとう)が発見されており、和銅鉱物館に保存されている。大野原村の氏神愛宕神社は古墳の上に建っている。

 多治比氏は、何度か武蔵国の国司となり、9世紀後半に多治比武信が武蔵国に配流され、秩父・児玉を押領。その後、京より下った峯時が、武蔵に居住し、石田牧(今の長瀞町・秩父の牧参照・平安時代は秩父は馬を生産して朝廷に献上していたらしい)別当を兼ねて丹貫主と号し、以後丹治氏と称して、その子峯房以下になって秩父郡の領主として、武蔵7党の一つである丹党となる。
 そのうち武州忍領原島村(現埼玉県熊谷市原島)に居住していた一族が地名から原島氏を名乗ることになり、その一部が奥多摩や大野原村に移り住んだ。
 丹党の中心となって活躍したのは、現在の秩父市中村に勢力を置いた嫡流中村氏である。

 桓武平氏の秩父氏は、吉田を本拠地としている。
 桓武平氏は、桓武天皇と多治比真宗(たじひのまむね・多治比嶋の孫)の孫高望王が、889年、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望(たいらのたかもち)を名乗ったことに始まる氏族であり、多治比氏と血縁関係にある。

 平高望は898年、上総介に任官し、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴き、在地勢力との関係を深めた。その後、902年、に西海道の国司となり大宰府に居住911年に同地で没した。
 高望の三男良将(よしまさ)の息子が平将門である。将門の娘春姫と平忠頼(たいらのただより)(高望王の5男平良文(たいらのよしふみ)の子)の子が平将恒(たいらのまさつね)=秩父氏(秩父平氏)の祖。

2018年4月30日月曜日

原島氏は継体天皇・宣化天皇・多治比古王の子孫


原島氏は、丹党の一族であり、継体天皇・宣化天皇・多治比古王の子孫である。
詳細は、秩父と多治比氏の関係を参照。
桓武平氏の祖・高望王の父葛原親王は、桓武天皇と多治比真宗の息子である。桓武平氏は、多治比氏の子孫でもある。(多治比氏に関する情報のまとめ)

2018年4月29日日曜日

越智氏について

越智氏(おちうじ)

応神天皇より伊予国小市の国造に任ぜられた乎致命(おちのみこと)を祖とする氏族。


 

 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖とする。宇摩志麻遅(ウマジマジ)系なので物部氏である。

 乎致命は大濱八幡神社に祭られている。大濱八幡神社付近は越智氏発祥の地とされており、越智氏発祥の地の巨大な碑石がある。同神社では、相殿として、饒速日とともに天道日女命(あまのみちひめのみこと・大国主の娘)が祭られている。饒速日と天道日女命の子が天香語山命(あまのかごやまのみこと)、その子が天村雲命であり、海部氏の祖先である(籠神社の説明)。乎致命とは別系列になるので、天道日女命が祀られているのは不可解(本来なら三炊屋媛(みかしきやひめ)でなければならないはず)。


 大三島にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、乎致命が建立した大山祇神を祀る神社で、境内に手植えの楠がある。


 越智氏の系図はここ。大山祇神社の神主は、代々越智氏の子孫が継承している(大祝(おおほおり、三島)氏)。

 古事記によると、饒速日は、大山祇の娘神大市比売(かむおおいちひめ)とスサノウとの間の子とされているので、大山祇神社では大山祇を祭っているものと思われる。しかし、饒速日は、瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)のことであり、萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)との天忍穂耳命の子であるので、どこかで混同されているようである。

 宇摩志麻遅が生まれた場所は、伊予である愛媛県東温市の浮嶋神社付近である。宇摩志麻遅は、饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生んだ子である。
 宇摩志麻遅が死亡したのは、島根県太田市の物部神社付近。

 物部氏の奈良での拠点は天理市の石上(いそのがみ)神宮付近である。
 石上神宮のある布留町一帯には布留遺跡がある。

 越智氏の子孫には、河野氏、矢野氏、伊予橘氏、三島氏、新居氏、伊予今井氏、土居氏(桓武平氏の土肥氏とは別)がある。

 かの伊藤博文は、越智氏の子孫であり、大濱八幡神社には伊藤博文の石像が建設されている(【越智宿禰姓 拝志(林)氏(伊藤氏)系図】)。

2018年4月26日木曜日

土肥氏について

土肥氏は、桓武天皇の子孫。桓武平氏。



小早川氏は、土肥氏の分家である。
似たものに土居氏があるが、河野氏の分家であり、別系統。

 桓武天皇は、多治比長野(たじひながの)の娘多治比真宗(たじひのまむね)との間に葛原親王(かずわらしんのう)をもうける。
 葛原親王の三男、高見王(たかみおう)の子、高望王(たかもちおう)は、 宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望を名乗った。昌泰元年(898年)、高望は上総介(上総国(かずさのくに)の実質的な長官)に任官。長男国香(くにか)、次男良兼、三男良将(よしまさ・この子が平将門である)を伴って任地に赴く。しかし、その側室の子良文は従わず、延長元年(923年)、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向した。
 その平良文の子孫、平宗平(むねひら)は相模国余綾郡中村荘(現・神奈川県小田原市中村原、中井町中村付近)の領主となり、中村氏を称するようになる。その二男、実平(さねひら)は、中村党をひきい源頼朝の挙兵に参戦、相模国土肥郷を有し、土肥を名乗るようになる。
 土肥実平の子・遠平は、土肥郷の北部・小早川(現在の神奈川県小田原市早川付近)に拠って小早川の名字を称し、平氏討伐の恩賞として平氏家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を拝領し、これを譲られた養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)が、安芸国に移住した。
 建永元年(1206年)、景平は長男の茂平に沼田本荘を与え、次男の季平には沼田新庄を与えた。茂平は承久の乱で戦功を挙げ、同国の都宇荘(つうのしょう)・竹原荘(たけはらのしょう、どちらも現在の広島県竹原市周辺)の地頭職を加えられた。