清和天皇(56代)
⇓
貞純親王
⇓
経基王=源 経基
(938年、武蔵介として現地に赴任。平将門の乱の原因を作る。藤原純友の乱にも参戦。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。京都の六孫王神社に祭られている。)
⇓
藤原摂関家に仕えて、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。二度国司を務めた摂津に土着。多田荘に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した。兵庫県川西市の多田神社に居館があった。
- 父満仲より多田の地を相続、藤原道長に仕え、但馬国、伊予国、摂津国(970年)の受領を歴任する。
- 丹波大江山での酒呑童子討伐で名をはせる。
- (1001年)には美濃守を兼任。同時期に尾張守となった大江匡衡と親交をもった。
- 子の頼国の子孫が美濃土岐郡に土着。土岐氏を称した(美濃源氏)。
- 岐阜市瑞浪市土岐町の八幡神社一帯がその本拠地である。
- 明智氏は、土岐氏の支流である。明智氏の本拠地は、岐阜県恵那市明智町の日本大正村一帯である。
土佐に流されている。
- 兄・頼光と同じく関白の藤原道兼に、その死後は道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。
- 河内に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館(羽曳野市の壷井八幡宮付近)を建てる。平忠常の乱を平定し、板東平氏の多くを配下加え、清和源氏が東国で勢力を広げる契機を作った。
- この頼信の系統が足利源氏、新田源氏、木曽義仲、源頼朝につながる。
- 源 頼義(みなもと の よりよし) 前九年の役で安部氏を滅ぼす。
- 源 義家(みなもと の よしいえ) 石清水八幡宮で元服し、八幡太郎(はちまんたろう)と名乗る。
- 源義国 下野国足利荘(栃木県足利市)を領して本貫とし、次男・源義康以降の子孫が足利氏を称する。→足利源氏の祖
- 源義重 上野国新田郡(群馬県太田市)を開発し、新田荘を立荘新田氏を名乗るようになる。→新田源氏
- 源 義親(みなもと の よしちか) 乱暴狼藉で源氏を衰退させる。
- 源為義(みなもとのためよし) 引き続き乱暴狼藉。
- 源 義賢(みなもと の よしかた)
- 源 義仲 (みなもと の よしなか)(木曾 義仲)大蔵神社がその居館跡。
- 源 義朝(みなもと の よしとも) 都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺される。
- ↳源 頼朝(みなもと の よりとも) 鎌倉へ
0 件のコメント:
コメントを投稿