2018年10月8日月曜日

大神神社の祀神は事代主。長髄彦はその子孫か。

陶津耳命(すえつみみのみこと)、別名大陶祇命(おおすえつみのみこと)、三嶋湟咋(みしまみぞくい)とも呼ばれる。

陶津耳命は、陶邑窯跡群がある茅渟県陶村を支配地とする須恵器製作職人集団の族長とみられる人物である。

陶邑には、陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)がある。主祀神は、高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)、八重事代主命、菅原道真公である。摂社に大田田根子も祀られている。

陶荒田神社は、陶津耳の子孫である荒田彦宿禰(あらたひこのすくね)創建とされている。荒田彦宿禰の先祖は、剣根命(つるぎねのみこと)、その父は、玉依彦(たまよりひこ)、その父が陶津耳命とされる。

陶津耳の父は天押立命(あめのおしたてのみこと)、その父は伊久魂命(いくむすびのみこと)、その父が高魂命(高霊産巣日命)である。

陶津耳には、息子の玉依彦(たまよりひこ)のほかに娘の活玉依媛(いくたまよりびめ 玉櫛媛ともいう)があり、活玉依媛は、三輪山の神(古事記によると大物主・大物主=事代主)との間に天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと 一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)を生んでおり、その子孫が大田田根子である。
活玉依媛は、事代主との間に媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んでおり、媛蹈鞴五十鈴媛命は皇祖神武天皇の皇后となっている。

活玉依媛(玉櫛姫)と媛蹈鞴五十鈴媛命は、大阪市茨木五十鈴町の溝咋神社において主祭神として祀られている。
茨木市によると
  • 溝咋神社はもともと、上の宮と下の宮に分かれていましたが、現在あるのは下の宮で、上の宮は、安威川を隔てた北側にありました。日本書紀神武天皇記によりますと、主神の一人である五十鈴媛命は、わが国初代天皇である神武天皇の皇后になられた人と記されています。また、玉櫛媛命は五十鈴媛命の母で、父は、この三島溝咋耳命で、広くこの地域を治めていた人であります。元来、溝とは“水"が命であり、耳は“長"を表すことから、溝咋耳とは、農業神の意味を持っています。この溝咋耳神が、いかに信仰されたかは、今も立派に残されている松並木の馬場先を見ても明らかです。(茨木市HPから引用
とされている。陶津耳命は、もともと、溝咋神社周辺を支配地にしており、その子孫の劔根命が陶荒田神社付近に移住したとみられる。

天日方奇日方命は、鴨王(かものきみ)とも呼ばれ、三輪氏・賀茂氏の祖とされる。神武天皇2年2月2日に宇摩志麻治命とともに申食国政大夫(けくにのまつりごともうすまちぎみ)に任命されたとされる。天日方奇日方命と宇摩志麻治命はいずれも事代主の息子又は孫であり、神武王朝の政治を取り仕切ったことは注目に値する。


玉依彦の息子の剣根命(つるぎねのみこと)は、神武2年、葛城国造に任命されている。
また、陶荒田神社を創建した荒田彦宿禰の娘である葛媛は、武内宿禰の妻となり、葛城襲津彦を生んでいる。

古事記が言う大物主は、大神神社の主祭神である。大物主は、大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」と言われるが、大神神社は、大己貴神(大国主の別名)を配祀している。大国主を大物主として祀り、重ねて大己貴神として祀るというのはおかしな話である。『先代旧事本紀』は、天日方奇日方命の父を八重事代主神としており、日本書記は、父の名は不明だが祖父は事代主神であるとしている。
当初、大物主=大きな物部の主だから饒速日かと考えたが、事代主も物部氏の祖先である。長髄彦は事代主の子。であるならその妹三炊屋媛(ミカシキヤヒメ、三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛、登美夜毘売、御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命)も事代主の子だろう。饒速日と結ばれて三炊屋媛が生んだのが物部氏の祖であると宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)である。それなら大きな物部の主は事代主ともいえる。

大神神社の別宮とされている村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は、事代主の妻である三穂津姫命(別名 弥富都比売神)を祭っている。

陶荒田神社は、高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)のほかに八重事代主命を祀っている。八重事代主が劔根命の祖先であることを示している。

大神神社は、崇神天皇が祀らせたものだが、崇神天皇は、出雲から神宝を奪っており、疫病がそのたたりと考え、出雲の神を祀らせたと考えればつじつまが合う。

長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったといわれる。
長髄彦は当初饒速日が天下った磐船神社の近くの生駒山山麓を本拠としていたが、神武が大和盆地に侵入した当時は、鳥見山(とみやま)山麓を本拠地にしていたようである(長髄彦の別名はトミノナガスネヒコ)。長髄彦は、殺されたとされているが、実は東北に逃げた又はその兄の安日彦(アビヒコ)が東北に逃げて安部氏を名乗ったとされている。安部氏はその後大和朝廷に組み込まれているが、大和での安部氏の本拠地が鳥見山の山麓にあり今でも安部という地名が残っている。
大神の近くである。纒向遺跡(まきむくいせき)は、長髄彦と饒速日の都であり、それがゆえに大神神社の地に事代主が祭られたとすれが合点がいく。


(参考リンク)
葛城の古代
陶津耳と三輪の大物主
櫛御方命
せんせん 大物主神
長髄彦の後裔とその奉斎神社
出雲王朝の五種の神宝

0 件のコメント:

コメントを投稿