土肥氏は、桓武天皇の子孫。桓武平氏。
小早川氏は、土肥氏の分家である。
似たものに土居氏があるが、河野氏の分家であり、別系統。
桓武天皇は、多治比長野(たじひながの)の娘多治比真宗(たじひのまむね)との間に葛原親王(かずわらしんのう)をもうける。
葛原親王の三男、高見王(たかみおう)の子、高望王(たかもちおう)は、 宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望を名乗った。昌泰元年(898年)、高望は上総介(上総国(かずさのくに)の実質的な長官)に任官。長男国香(くにか)、次男良兼、三男良将(よしまさ・この子が平将門である)を伴って任地に赴く。しかし、その側室の子良文は従わず、延長元年(923年)、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向した。
その平良文の子孫、平宗平(むねひら)は相模国余綾郡中村荘(現・神奈川県小田原市中村原、中井町中村付近)の領主となり、中村氏を称するようになる。その二男、実平(さねひら)は、中村党をひきい源頼朝の挙兵に参戦、相模国土肥郷を有し、土肥を名乗るようになる。
土肥実平の子・遠平は、土肥郷の北部・小早川(現在の神奈川県小田原市早川付近)に拠って小早川の名字を称し、平氏討伐の恩賞として平氏家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を拝領し、これを譲られた養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)が、安芸国に移住した。
建永元年(1206年)、景平は長男の茂平に沼田本荘を与え、次男の季平には沼田新庄を与えた。茂平は承久の乱で戦功を挙げ、同国の都宇荘(つうのしょう)・竹原荘(たけはらのしょう、どちらも現在の広島県竹原市周辺)の地頭職を加えられた。
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