2019年2月6日水曜日

岐阜の覇者は日子坐王!

日子坐王ひこいますのおう)は、第9代開化天皇と和珥氏遠祖の姥津命(ははつのみこと)の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子である。
岐阜市の伊奈波乃西神社に祀られており、その隣に墓がある。




第10代天皇崇神天皇は異母兄弟にあたる。
(周辺系図)

日子坐王は、崇神天皇の勅命により、息子の丹波道主命(彦多都彦命)を連れて、丹波に遠征、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を退治した後、さらに勅命により、美濃国各務郡岩田に下り、息子の八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ・別名神大根王(カムオオネノミコ))ともに一帯を開発、この地で亡くなったとされる。
神大根王(神骨)は、本巣国造に任命された(現在の岐阜県本巣市・瑞穂市・北方町)。本巣市の見延神王社に祀られている。近くには、東海地方最大級といわれる舟木山古墳群があり、その勢力がいかに強大だったかうかがい知ることができる。
日子坐王は、美濃加茂市にある縣主神社にも祀られている。日子坐王の子孫がこの地を治め、加茂県主となり、祖先を祀ったといわれている。

丹波道主命と神大根王の母はいずれも息長水依比売(おきながのみずよりひめ・滋賀県野洲市三上にある御上神社(みかみじんじゃ)に祀られている天之御影命(あめのみかげのみこと)の娘である。天之御影命は、天照大御神の三男で多度大社に祀られている天津彦根の子なので、天照大御神のひ孫ということになる。

丹波道主命は、四道将軍として、丹波の豪族丹波国の豪族・川上摩須の娘である川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)を嫁にもらい、現在の久美浜町川上に居館を持ったとされているが、川上摩須郎女は、岐阜市内の方県津神社(かたがたつじんじゃ)で祀られている。


岐阜神社庁HPによると、「往古当所は伊勢湾の海水爰に浸入し、大船の往来繁く、肩と肩を接する程の賑わいなりし故肩々津港と称され」とあり、昔は港としてにぎわったようである。方県津神社は、古墳の上に立っている。川上摩須郎女の墓だろうか。人質として連れてこられたということか。

日子坐王は、若狭の闇見神社(くらみ神社)に祀られている沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)との間に、狭穂彦王日下部連・甲斐国造の祖)と狭穂姫命を生んでいる。狭穂姫は、11代垂仁天皇の皇后となったが、垂仁天皇の暗殺に失敗し、兄の沙穂彦とともに殺されている。それでも、垂仁天皇は、叔父の日子坐王の力を必要としたのか?丹波道主命と川上摩須郎女の娘・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)を皇后に迎え、五十瓊敷入彦命、大足彦(景行天皇)、倭姫命(やまとひめのこと)他を生んでいる。
すなわち、五十瓊敷入彦景行天皇は、日子坐王の孫である。

五十瓊敷入彦は、奈良の石神神宮(いそがみじんぐう)を武器庫として、朝廷の武器の製造と管理を担っていたことで有名だが、謀反の疑いをかけられ、岐阜の稲葉山を根城して、息子の市隼雄命(いちはやおのみこと)とともに朝廷軍と戦ったが殺されている。
そのため、五十瓊敷入彦は、稲葉山山麓の伊奈波神社で祀られ、市隼雄命はその南側の橿森神社(かしもりじんじゃ)で祀られている。また、五十瓊敷入彦の妻で、市隼雄命の母である渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は、夫の死地を訪れ、夫を慰霊しつつ生涯を終え、私財を投じて町の発展に寄与したことから、後に「財をもたらす神」として祀られるようになり、金大神(こがねのおおかみ)として祀られている。
岐阜では、伊奈波神社、金神社橿森神社、は、岐阜三社とよばれいる。三社詣りと言って、初詣にこの三社にお参りすれば御利益抜群とされている。



市隼雄命の墓は岐阜県各務原市にある。

あまり知られていないようであるが、五十瓊敷入彦は、別に臣下・毛里倫満(もうりとしみつ)の娘との間に子をなしている。擁烈根之命(たきつらねのみこと)といい、岐阜市県町の縣神社(あがたじんじゃ)に祀られている。同神社によると、擁烈根之命は、美濃国厚見県主に任じられ縣神社周辺の開発に尽力したという。

さて、日子坐王の孫、景行天皇は、即位2年、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后とし、大碓皇子(おおうすのみこ)及び小碓尊((おうすのみこと、後の日本武尊)の双子をもうけている。
大碓は、父景行天皇から神大根王(神骨)の美人姉妹・兄比売(あにひめ)と弟比売(おとひめ)を連れてこいと言われるが、父に渡さず自分の嫁にしてしまう。そのため、美濃に封じられ、兄比売とは、押黒之兄日子王、弟比売とは押黒弟日子王をもうけ、押黒之兄日子王は三野之宇泥須和気の祖に、押黒弟日子王は牟宜都君らの祖になった。
大碓が住んでいたのが現在の岐阜県山県市柿野。大碓を祀る清瀬神社がある。
牟義都国造むげつこくぞう)伊自牟良君(身毛津(むげつ)氏)は、押黒弟日子王の子孫である。美濃国伊自良(現山県市旧伊自良村)を本拠とした。領地拡大にて館を関市池尻に移転した。その遺跡が国指定の弥勒寺官衙遺跡郡である。



かの円空は、晩年を弥勒寺で過ごし、その近くで入定したという。遺跡群の入口近くの川沿いに円空入定塚がある。
大碓は、豊田市の猿投山で毒蛇にかまれて死亡し、猿投山に墓所があり、猿投神社でも祀られている。

日子坐王の孫である倭姫(五十瓊敷入彦、景行天皇の兄妹)は、初代斎宮である。豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神のご神体である八咫鏡を持って各地を転々とした陶、伊勢の地で天照大神を祀った。伊勢に落ち着く前に岐阜に4年滞在した。そこが、現在の岐阜県瑞穂市居倉にある天神神社である。伊久良河宮(いくらがわのみや)という。



景行天皇も岐阜にきている。即位4年、美濃国に行幸。美人と名高い弟姫(おとひめ)を妃にしようと現在の可児市の泳宮(くくりのみや)に滞在した。しかし拒絶されたため、姉の八坂入媛命を妃とした。
同地同地では、巨大銅鐸が発見されている。美濃焼発祥の地ともいわれている。
ちなみに景行天皇をふった弟姫の墓はとなりの土岐市にある乙塚古墳である。


(参考)
天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
和邇氏考
世襲足媛と宇那比姫は共に尾張氏
彦坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう)
こんなところにこの方の墓が

2018年10月20日土曜日

美濃齊藤氏の氏神は菅原道真

齊藤氏の祖は、鎮守府将軍・藤原利仁(ふじわらのとしひと)。
その子、斎宮頭叙用(さいぐうのかみのぶもち=藤原叙用)が、伊勢神宮の役職「斎宮頭」から「齊」、藤原氏から「藤」をとり、斎藤と称するようになったとされる。
 ( 参照 斎藤さんのルーツを探せ! )
美濃齊藤氏はその子孫である。

岐阜には、菅原道真を祭る神社が多い(「八百万の神」の検索結果参照)。

菅原道真の祖父菅原清公(すがわらきよきみ)は、美濃国の少掾(国司の役職の一つ)をしており、菅原氏と美濃とは少なからずの因縁がある上、美濃守護代をしていた美濃齊藤氏は、菅原道真の子孫であり、菅原道真を氏神として尊崇していたためのようである。
岐阜の長良天神神社は、美濃齊藤氏が、菅原道真を氏神として祀る神社である。
長良天神神社HP)
ちなみに、前田利家も菅原道真の子孫と称しており、金沢市の尾山神社において菅原道真を氏神として祭っている。

菅原氏は、天照大御神の二男天穂日命の子孫で、野見宿禰を先祖とする土師氏(はじうじ)の子孫である。大和国菅原邑に住んでいたことから、菅原氏を名乗るようになったとされる。

出雲に菅原天満宮がある。その境内には、野見宿祢の墓がある。
菅原天満宮の社伝によると、菅原道真は、その父・菅原是善が祖先である野見宿祢の墓参りをした際、その案内をした娘を気に入って愛人にし、生まれたのが道真だということである。(よみがえる出雲王朝参照)

京都には、文子天満宮がある。

文子天満宮HPより引用)

道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)が建立したもので、北野天満宮の前身と言われる。道真の父是善が野見宿祢の墓参りをした際、その案内をした娘というのは多治比文子であり、道真の実母ということかもしれない。


2018年10月8日月曜日

織田信長は、日子坐王の子孫であり、神功皇后と戦った忍熊王の子孫か?

福井県には、丹生郡越前町織田という土地がある。
織田は、縄文時代から続く古い土地である。織田という地名は太古から機織が行われていたことと関連があるようで、織部の田があるから織田という地名となったのか。
織田には、越前二宮である劔神社(つるぎじんじゃ)がある。祭神は、素戔嗚尊、気比大神、忍熊王(おしくまのおう)である。

劔神社の由来は、そのHPから引用すると
  • 劔神社の創祀については、第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷の北に聳える座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、その後、第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣という人が和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきたことが縁起として伝えられている。
  • また、神功皇后摂政のころ、第十四代仲哀天皇の第二皇子・忍熊王が素盞嗚大神を現在の織田の杜に遷されたことを、座ヶ岳の故事として次のように伝えている。
とのことで、忍熊王は、公式には、殺されたことになっているが、織田の地で生きいて地元民から神として祭られるまでになったということになっている。

織田信長を輩出した織田氏は、代々劔神社の神官をしており、斯波氏が越前の守護職をしていた際に、劔神社の神官の子・常昌が斯波氏の家臣となり、出身地名から「織田」を名乗るようになったのが織田氏の始まりとされている。そのため、織田氏の家紋は劔神社の家紋と同じ木瓜紋(もっこうもん)である。

織田信長は、劔神社を氏神として信奉していたという。

忍熊王は、仲哀天皇と大中姫命(彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)または大江王の娘)。彦人大兄命は、景行天皇と伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)の子である。伊那毘能若郎女の姉は、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)である。播磨稲日大郎姫は、櫛角別王(くしつのわけのみこ)・大碓命(おおうすのみこと)・小碓命・倭根子命(やまとねこ)・神櫛王(かむくしのみこ)を生んでいる。

伊那毘能若郎女と播磨稲日大郎姫の父は、兄の吉備津彦命(大吉備津彦命)とともに岡山県総社市周辺で鬼の温羅を討ったという伝説が知られる稚武彦命(わかたけひこのみこと)(孝霊天皇の子)である。母はよくわからないが、景行天皇が播磨加古川に行って二人を妻にしたとあり、播磨稲日大郎姫の墓が加古川にあるので、加古川の豪族の娘と思われる。

成務天皇の時代に角鹿国造に定められた建功狭日命(たけいさひのみこと)は、稚武彦命の孫とされる。越前町は角鹿国に含まれる。その子孫は代々気比大社の社家を務めている。

なかな理解が難しいが系図を書くとこんなかんじか。 



神戸区垂水にある五色塚古墳(ごしきづかこふん)は忍熊王が神功軍を迎え撃つために建てたと言われている。忍熊王のひい爺さんは播磨の豪族らしいのでこれができたということか。また、忍熊王が越前に逃れることができたのも、おじさんの建功狭日命が角鹿国造をしており、かくまってもらった。そのため神功皇后らも殺すことができくなったということなのかもしれない。

気比大社の本来の祭神は、都怒我阿羅斯等と言われており、建功狭日命は都怒我阿羅斯等の子孫であると言われているので、そうだとすれば????の部分の母方に都怒我阿羅斯等の子孫が入ることになるのだろう。

織田信長が滅ぼした越前新倉氏は、日子坐王の息子である狭穂彦王の子孫日下部氏の一族である。朝倉氏及び日下部氏の家紋は、三ッ盛木瓜であり、織田氏の家紋はこれをまねたものと言われている。織田氏は、日下部氏と同族であり、日子坐王の子孫なのか?


(参考)
織田町
歴史のある繊維の街福井
天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)
【古事記】香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の反逆
せんせん 五十狹茅宿禰
角鹿国造

大神神社の祀神は事代主。長髄彦はその子孫か。

陶津耳命(すえつみみのみこと)、別名大陶祇命(おおすえつみのみこと)、三嶋湟咋(みしまみぞくい)とも呼ばれる。

陶津耳命は、陶邑窯跡群がある茅渟県陶村を支配地とする須恵器製作職人集団の族長とみられる人物である。

陶邑には、陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)がある。主祀神は、高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)、八重事代主命、菅原道真公である。摂社に大田田根子も祀られている。

陶荒田神社は、陶津耳の子孫である荒田彦宿禰(あらたひこのすくね)創建とされている。荒田彦宿禰の先祖は、剣根命(つるぎねのみこと)、その父は、玉依彦(たまよりひこ)、その父が陶津耳命とされる。

陶津耳の父は天押立命(あめのおしたてのみこと)、その父は伊久魂命(いくむすびのみこと)、その父が高魂命(高霊産巣日命)である。

陶津耳には、息子の玉依彦(たまよりひこ)のほかに娘の活玉依媛(いくたまよりびめ 玉櫛媛ともいう)があり、活玉依媛は、三輪山の神(古事記によると大物主・大物主=事代主)との間に天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと 一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)を生んでおり、その子孫が大田田根子である。
活玉依媛は、事代主との間に媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んでおり、媛蹈鞴五十鈴媛命は皇祖神武天皇の皇后となっている。

活玉依媛(玉櫛姫)と媛蹈鞴五十鈴媛命は、大阪市茨木五十鈴町の溝咋神社において主祭神として祀られている。
茨木市によると
  • 溝咋神社はもともと、上の宮と下の宮に分かれていましたが、現在あるのは下の宮で、上の宮は、安威川を隔てた北側にありました。日本書紀神武天皇記によりますと、主神の一人である五十鈴媛命は、わが国初代天皇である神武天皇の皇后になられた人と記されています。また、玉櫛媛命は五十鈴媛命の母で、父は、この三島溝咋耳命で、広くこの地域を治めていた人であります。元来、溝とは“水"が命であり、耳は“長"を表すことから、溝咋耳とは、農業神の意味を持っています。この溝咋耳神が、いかに信仰されたかは、今も立派に残されている松並木の馬場先を見ても明らかです。(茨木市HPから引用
とされている。陶津耳命は、もともと、溝咋神社周辺を支配地にしており、その子孫の劔根命が陶荒田神社付近に移住したとみられる。

天日方奇日方命は、鴨王(かものきみ)とも呼ばれ、三輪氏・賀茂氏の祖とされる。神武天皇2年2月2日に宇摩志麻治命とともに申食国政大夫(けくにのまつりごともうすまちぎみ)に任命されたとされる。天日方奇日方命と宇摩志麻治命はいずれも事代主の息子又は孫であり、神武王朝の政治を取り仕切ったことは注目に値する。


玉依彦の息子の剣根命(つるぎねのみこと)は、神武2年、葛城国造に任命されている。
また、陶荒田神社を創建した荒田彦宿禰の娘である葛媛は、武内宿禰の妻となり、葛城襲津彦を生んでいる。

古事記が言う大物主は、大神神社の主祭神である。大物主は、大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」と言われるが、大神神社は、大己貴神(大国主の別名)を配祀している。大国主を大物主として祀り、重ねて大己貴神として祀るというのはおかしな話である。『先代旧事本紀』は、天日方奇日方命の父を八重事代主神としており、日本書記は、父の名は不明だが祖父は事代主神であるとしている。
当初、大物主=大きな物部の主だから饒速日かと考えたが、事代主も物部氏の祖先である。長髄彦は事代主の子。であるならその妹三炊屋媛(ミカシキヤヒメ、三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛、登美夜毘売、御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命)も事代主の子だろう。饒速日と結ばれて三炊屋媛が生んだのが物部氏の祖であると宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)である。それなら大きな物部の主は事代主ともいえる。

大神神社の別宮とされている村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は、事代主の妻である三穂津姫命(別名 弥富都比売神)を祭っている。

陶荒田神社は、高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)のほかに八重事代主命を祀っている。八重事代主が劔根命の祖先であることを示している。

大神神社は、崇神天皇が祀らせたものだが、崇神天皇は、出雲から神宝を奪っており、疫病がそのたたりと考え、出雲の神を祀らせたと考えればつじつまが合う。

長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったといわれる。
長髄彦は当初饒速日が天下った磐船神社の近くの生駒山山麓を本拠としていたが、神武が大和盆地に侵入した当時は、鳥見山(とみやま)山麓を本拠地にしていたようである(長髄彦の別名はトミノナガスネヒコ)。長髄彦は、殺されたとされているが、実は東北に逃げた又はその兄の安日彦(アビヒコ)が東北に逃げて安部氏を名乗ったとされている。安部氏はその後大和朝廷に組み込まれているが、大和での安部氏の本拠地が鳥見山の山麓にあり今でも安部という地名が残っている。
大神の近くである。纒向遺跡(まきむくいせき)は、長髄彦と饒速日の都であり、それがゆえに大神神社の地に事代主が祭られたとすれが合点がいく。


(参考リンク)
葛城の古代
陶津耳と三輪の大物主
櫛御方命
せんせん 大物主神
長髄彦の後裔とその奉斎神社
出雲王朝の五種の神宝

2018年7月7日土曜日

あまり知られていない岐阜の重要史跡メモ

飛騨=高天原
 飛騨伝承によると、飛騨=高天原とされる(日本人のルーツ飛騨)。

  • 高天原は、1か所のことを指すのではなく、高地盆地を本拠とする縄文時代から続く有力部族の連合体を意味しているように思われるが・・・。飛騨はその中心であった可能性がある。
飛騨一之宮は、水無神社(みなしじんじゃ)である。

 水無神社のご神体は、その近くの位山(くらいやま)だ。
 位山には、神武天皇が神から王位を授かった場所との伝承がある。
 位山にはイチイの原生林がある。太古から、新しい天皇が即位すると、位山のイチイで作った笏が朝廷に献上され、即位の礼で使用されている。なんと、令和の今上天皇にも献上されている。
            
 ※パワースポット飛騨の霊峰位山


南宮大社地図
美濃国一之宮。金山彦を祀る。創設は神武天皇の時代にさかのぼる。古くは仲山金山彦神社といわれ、美濃国府が置かれていた府中(垂井町)に祀られていたとされる。現在地の二キロほどのところである。崇神天皇のとき、現在の場所に移り、国府の南に位置することから、南宮大社と呼ばれるようになったと伝えられる(南宮大社HP)。
 金山彦は、神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)とともに鉱山の神として信仰されている。
 金山彦は、美濃の国守であり、中山道を開いたとされる(ホマツタエから引用、「濃尾両国通史」にも美濃の祖伸とある)。
 一説に、古代(古墳時代)青銅器の部族を渡来系の鉄器・鉄剣を持つ部族が戦力で青銅器部族を圧倒して打ち破った。奈良・倭国部族に属した鉄器・鉄剣を製造出来る「金山彦命」は「戦で破れない」の代名詞となり、後に「不破」の姓を賜った・・とある。金山彦命(一族)は後年「不破の関」の関守となり、不破郡関ケ原から垂井・大垣・安八・神戸・養老・墨俣にいたる広範囲を治める見野命(美濃領主)として、現在の岐阜県 西濃地域を領地としていたとされる(不破姓の由来)。
 天津国玉(アマツクニタマ)は、金山彦の子である(引用ホマツタエ)。
 天津国玉の子が天若日子(アメワカヒコ)。
 南雲大社は、金山彦は天照大御神の兄であるとしている。
 不破には、太古に鉄を産出した金生山(かなぶやま)がある。
 その近くには昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)がある。
その上に登ってみてほしい。冬には、伊吹山から、立っているのが困難なほどの強風が吹きつけてくる。たたら製鉄に最適の風である。

〇喪山(もやま)
 天若日子は、高天原を裏切ったとして、高御産巣日神に射殺されている古事記の記述・・言霊より)。阿遅志貴高日子根が天若日子の喪屋を剣で切り、足で蹴飛ばし、美濃国藍見河の河上まで飛んで喪山となったとされているが、その場所は、美濃市の大矢田神社の地と比定されている(地図)。
 
 大矢田神社の創建は孝霊天皇の時代。深山に悪竜が棲み付き、困った里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。 その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ、悪竜を退治してくれた。平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。
 その摂社喪山天神社は、もともと大矢田神社の地にあったのを移転したものとされる。
 その社伝によると、天照大神に豊葦原中国の平定の為遣わされた天若日子命は、大国主命の娘下照比賣命を娶り、大矢田の里に到り田畑を開き、人民を繁殖してこの地に住んだとされている。

 その近くには天若日子の妻である下照姫をまつる上神神社がある(地図)。 社由緒書きによれば、下照比売と天稚彦命は力を合わせて中津国の平定に大きな功績を残し、この里にお住居になつた神と伝えている。
 さらにその近くには真木倉神社がある(地図)。天若日子と下照姫の子である御手洗姫命(みたらいひめのみこと)の生誕地とされており、御手洗姫命が主祭神として祀られている(飛騨*美濃*尾張∞火と水の調和コミュの大矢田の喪山伝説)。
 なお、垂井町の葬送山古墳が喪山との説もある(KISSOこぼれネタVOL.64)。

日子坐王の墓地図
 日子坐王(ひこいますのおう)は、旦波の国で玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」後、美濃国各務(かかみ)郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくし、この地で死亡したとされる。その子の八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)=神大根王(カムオオネノミコ)が御陵を清水山の中腹に築いた(引用 レッツ不思議マガジン)。
 日子坐王は、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子である。

伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)(地図
 日子坐命とその子の八瓜入日子(神大根王)を祀る。近くに日子坐王の墓がある。
 神大根王は、五十瓊敷入彦の祖父丹波道主の弟であり、三野(美濃)本巣国造の祖。長幡部連の祖。
 神王根王は、本巣市の神王神社 (こうのうじんじゃ)に祭られている。この付近が本拠地であったらしい(地図)。

縣主神社(あがたぬしじんじゃ) (地図
 日子坐王を祀る。当地を治めた鴨県主が祖先の彦坐王(=日子坐王)を祀ったものとも、彦坐王がこの地にやってきて治めていたのだが、その子孫が県主となり創建したともいわれる。
※神大根王の子孫・長幡部連関連
 長幡部神社 埼玉県児玉郡上里町長浜
 長幡部神社 (常陸太田市)

伊奈波(いなばじんじゃ)神社
 日子坐王のひ孫である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を祀る。
 社伝によると五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたとされる(wikiより引用)。
 なお、現在ある社地は齊藤道三により移転されたもので、もともとは稲葉山の丸山付近にあったとされる(丸山神社)。
※五十瓊敷入彦命
 父は垂仁天皇(すいにんてんのう・活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと))、母は、丹波道主(たんばのみちぬし)王の娘・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。丹波道主の父は開花天皇子の日子坐王。母は、天之御影神(天津彦根の子)の娘の息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)である。
 景行天皇は五十瓊敷入彦の弟。倭姫は妹。

伊久良河宮(いくらがわのみや)地図
 倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照大神を祀り各地を転々している途中、天照大神天照瑞穂市居倉(いくら)の伊久良河宮に4年間鎮座した。
 元伊勢の場所については、人文研究見聞録が詳しい。


〇両面窟(りょうめんくつ)地図
 両面宿儺(りょうめんすくな)が住んでいたとされる洞窟。近くに飛騨大鍾乳洞がある。
 関市の日龍峰寺(にちりゅうぶじ)は両面宿儺が祠を建立したのが始まりとされる。
 飛騨千光寺地図)には、円空が作った両面宿儺像がある。


〇景行天皇泳宮(くくりのみや)跡 地図
 景行天皇は、景行4年、八坂入彦の娘、弟媛(おとたちばなひめ)を妃にしようと訪れた際の行宮。弟媛にふられたので、代わりにその姉八坂入媛(やさかいりひめ)を連れ帰って妃にした。

八剱神社(やつるぎじんじゃ) 地図
 八坂入彦を祀る。近くに八坂入彦の墓とされる大萱古墳がある(写真)。
 八坂入彦は、崇神天皇と尾張大海媛(おわりのおおしあまひめ)の子。崇神天皇の命令で倭大国魂神を祀ったが髪は抜け落ちて体も痩せてしまい祀ることが出来なかったという渟名城入姫命(ぬなかのいりひめのみこと)は、その妹である。
 尾張大海媛は、饒速日の六世孫建宇那比命(たけうなひのみこと)の娘であり、尾張連の祖である。八坂入彦は、饒速日の子孫ということになる。
 八坂入彦は、尾張より東濃に入り、久々利の地を開拓し、久々利で亡くなったとされる(濃尾両国通史)。

猿投神社(さるなげじんじゃ)地図
 小碓尊(おうすのみこと・日本武尊)の双子の兄、大碓命(おおうすのみこと)を祀る。日本書記によると、大碓命は、父景行天皇から蝦夷平定を命じられたが、嫌がって逃げ隠れたため、美濃国に封じられた。そして大根王(三野国造の祖)の娘の兄比売・弟比売姉妹を妻とし、兄比売とは押黒之兄日子王を、弟比売とは押黒弟日子王をもうけ、押黒之兄日子王は三野之宇泥須和気の祖に、押黒弟日子王は牟宜都君らの祖になったという(本拠地は関市の弥勒寺跡付近)。
 大碓は、猿投山で毒蛇にかまれて死亡したとされ、近くにそのがある。

飛騨一之宮水無神社 地図
 祭神は、御年大神(みとしのおおかみ)=饒速日である。飛騨は古くから饒速日一族の支配地だったことを示している。

養老の瀧 地図
 飲み屋のことではない。元正天王が行幸した折、養老の瀧の水で、傷がなおるわ、白髪が黒くなるわ、若返るわで、驚嘆し、元号を「養老」に改めたといういわくつきの瀧である。霊泉が酒になったという養老の孝子の逸話あり。たしかにこの付近の酒造の酒はうまい(養老乃瀧と酒伝説の真相とは)(美濃菊)。

〇明智城址
 明智光秀は、可児市にある明智城で生まれた(明智城 (美濃国可児郡)参照)。
 明智氏は、清和源氏土岐氏の分家である(明智氏参照)。
 齊藤道三により土岐氏が滅ぼされた後、道三に仕えたが、齊藤義龍により美濃を追われて流浪の身となり、織田信長に仕えるに至った。
 明智光秀は、天王山で死だことになっているが、死んだのは影武者で、本人は、岐阜県山県市中洞に逃れ、荒深小五郎と名乗ってこの地に隠れ住んでいたという伝承があり。光秀の墓がある。
 




 

2018年6月10日日曜日

清和源氏系譜 明智氏は、清和源氏嫡流 源頼光の子孫だ。

武家として知られる清和源氏の起源は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子である経基王が臣籍降下により源姓を賜り源経基(みなもとのつねもと)と名乗ったことに遡る。
 
 清和天皇(56代)
   ⇓
 貞純親王
   
 経基王=源 経基
(938年、武蔵介として現地に赴任。平将門の乱の原因を作る。藤原純友の乱にも参戦。武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。京都の六孫王神社に祭られている。)
   
 源 満仲(みなもとのみつなか)・・多田源氏 
 藤原摂関家に仕えて、摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。二度国司を務めた摂津に土着。多田荘に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成した。兵庫県川西市の多田神社に居館があった。
 ↳①長男・源 頼光(みなもと の よりみつ)(らいこう)・・摂津源氏
  • 父満仲より多田の地を相続、藤原道長に仕え、但馬国、伊予国、摂津国(970年)の受領を歴任する。
  • 丹波大江山での酒呑童子討伐で名をはせる。
  • (1001年)には美濃守を兼任。同時期に尾張守となった大江匡衡と親交をもった。
  • 子の頼国の子孫が美濃土岐郡に土着。土岐氏を称した(美濃源氏)。
  • 岐阜市瑞浪市土岐町の八幡神社一帯がその本拠地である。
  • 明智氏は、土岐氏の支流である。明智氏の本拠地は、岐阜県恵那市明智町の日本大正村一帯である。
 ↳②二男・源 頼親(みなもと の よりちか)・・大和源氏
   土佐に流されている。
  • 兄・頼光と同じく関白の藤原道兼に、その死後は道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任する。
  • 河内に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館(羽曳野市の壷井八幡宮付近)を建てる。平忠常の乱を平定し、板東平氏の多くを配下加え、清和源氏が東国で勢力を広げる契機を作った。
  • この頼信の系統が足利源氏、新田源氏、木曽義仲、源頼朝につながる。

  




2018年5月26日土曜日

秩父と多治比氏との関係


 秩父は、旧石器時代からの歴史の古い地域である(秩父市の歴史)。東国では最も古くから大和朝廷の支配が及んだ地域であり、崇神天皇の時代、知知夫国(ちちぶのくに)と呼ばれ、八意思金命(やえおもいかねのみこと)の10世孫の知知夫彦命(ちちぶひこ の みこと)が初代知々夫国造に任命された(国造家一覧参照)。
 秩父神社は、知知夫彦命が祖神である八意思兼命を祀ったことに始まるとされ、大神神社とならぶ日本最古級の神社である。
秩父神社HPから引用)

 秩父神社の例祭である秩父夜祭は、知知夫国に知知夫彦が大神を祭ったとされる時代か、それ以前から神奈備山である武甲山への信仰として行われてきたものが起源ではないかと言われる。

多治比氏と秩父との関係は、黒谷の聖神社(ひじりじんじゃ)付近で銅が発見されたことに始まる。第43代元明天皇の時代の西暦708年、黒谷で日本で初めて高純度の自然銅(ニギアカガネ、和銅)が産出し、郡司を通じて朝廷に献上された。喜んだ天皇は同日「和銅」と改元し、多治比真人三宅麻呂を鋳銭司に任命し、勅使として当地へ派遣した。三宅麻呂は、聖神社地へ神籬を遷し、採掘された和銅13塊を内陣に安置し金山彦命と国常立尊、大日孁貴尊、神日本磐余彦命の4柱を神体とし、天皇から下賜され帯同した銅製の百足雌雄1対を納めた(和銅会報HP参照)。
 聖神社付近には、大野原古墳群がある。築造時期は7世紀後半から8世紀初頭と見られ。聖神社には大野原古墳群出土の鉄刀、鐔、鉄鏃、蕨手刀、円筒埴輪、和同開珎が保存されている。原谷小学校の校庭の円墳からは蕨手刀(わらびてのとう)が発見されており、和銅鉱物館に保存されている。大野原村の氏神愛宕神社は古墳の上に建っている。

 多治比氏は、何度か武蔵国の国司となり、9世紀後半に多治比武信が武蔵国に配流され、秩父・児玉を押領。その後、京より下った峯時が、武蔵に居住し、石田牧(今の長瀞町・秩父の牧参照・平安時代は秩父は馬を生産して朝廷に献上していたらしい)別当を兼ねて丹貫主と号し、以後丹治氏と称して、その子峯房以下になって秩父郡の領主として、武蔵7党の一つである丹党となる。
 そのうち武州忍領原島村(現埼玉県熊谷市原島)に居住していた一族が地名から原島氏を名乗ることになり、その一部が奥多摩大野原村に移り住んだ。
 丹党の中心となって活躍したのは、現在の秩父市中村に勢力を置いた嫡流中村氏である。

 桓武平氏の秩父氏は、吉田を本拠地としている。
 桓武平氏は、桓武天皇と多治比真宗(たじひのまむね・多治比嶋の孫)の孫高望王が、889年、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望(たいらのたかもち)を名乗ったことに始まる氏族であり、多治比氏と血縁関係にある。

 平高望は898年、上総介に任官し、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴き、在地勢力との関係を深めた。その後、902年、に西海道の国司となり大宰府に居住911年に同地で没した。
 高望の三男良将(よしまさ)の息子が平将門である。将門の娘春姫平忠頼(たいらのただより)高望王の5男平良文(たいらのよしふみ)の子)の子が平将恒(たいらのまさつね)=秩父氏(秩父平氏)の祖。