織田は、縄文時代から続く古い土地である。織田という地名は太古から機織が行われていたことと関連があるようで、織部の田があるから織田という地名となったのか。
織田には、越前二宮である劔神社(つるぎじんじゃ)がある。祭神は、素戔嗚尊、気比大神、忍熊王(おしくまのおう)である。
- 劔神社の創祀については、第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷の北に聳える座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、その後、第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣という人が和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきたことが縁起として伝えられている。
- また、神功皇后摂政のころ、第十四代仲哀天皇の第二皇子・忍熊王が素盞嗚大神を現在の織田の杜に遷されたことを、座ヶ岳の故事として次のように伝えている。
織田信長を輩出した織田氏は、代々劔神社の神官をしており、斯波氏が越前の守護職をしていた際に、劔神社の神官の子・常昌が斯波氏の家臣となり、出身地名から「織田」を名乗るようになったのが織田氏の始まりとされている。そのため、織田氏の家紋は劔神社の家紋と同じ木瓜紋(もっこうもん)である。
織田信長は、劔神社を氏神として信奉していたという。
忍熊王は、仲哀天皇と大中姫命(彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)または大江王の娘)。彦人大兄命は、景行天皇と伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)の子である。伊那毘能若郎女の姉は、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)である。播磨稲日大郎姫は、櫛角別王(くしつのわけのみこ)・大碓命(おおうすのみこと)・小碓命・倭根子命(やまとねこ)・神櫛王(かむくしのみこ)を生んでいる。
伊那毘能若郎女と播磨稲日大郎姫の父は、兄の吉備津彦命(大吉備津彦命)とともに岡山県総社市周辺で鬼の温羅を討ったという伝説が知られる稚武彦命(わかたけひこのみこと)(孝霊天皇の子)である。母はよくわからないが、景行天皇が播磨加古川に行って二人を妻にしたとあり、播磨稲日大郎姫の墓が加古川にあるので、加古川の豪族の娘と思われる。
成務天皇の時代に角鹿国造に定められた建功狭日命(たけいさひのみこと)は、稚武彦命の孫とされる。越前町は角鹿国に含まれる。その子孫は代々気比大社の社家を務めている。
なかな理解が難しいが系図を書くとこんなかんじか。
神戸区垂水にある五色塚古墳(ごしきづかこふん)は忍熊王が神功軍を迎え撃つために建てたと言われている。忍熊王のひい爺さんは播磨の豪族らしいのでこれができたということか。また、忍熊王が越前に逃れることができたのも、おじさんの建功狭日命が角鹿国造をしており、かくまってもらった。そのため神功皇后らも殺すことができくなったということなのかもしれない。
織田信長が滅ぼした越前新倉氏は、日子坐王の息子である狭穂彦王の子孫日下部氏の一族である。朝倉氏及び日下部氏の家紋は、三ッ盛木瓜であり、織田氏の家紋はこれをまねたものと言われている。織田氏は、日下部氏と同族であり、日子坐王の子孫なのか?
(参考)
織田町
歴史のある繊維の街福井
天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)
【古事記】香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の反逆
せんせん 五十狹茅宿禰
角鹿国造
0 件のコメント:
コメントを投稿