2018年10月20日土曜日

美濃齊藤氏の氏神は菅原道真

齊藤氏の祖は、鎮守府将軍・藤原利仁(ふじわらのとしひと)。
その子、斎宮頭叙用(さいぐうのかみのぶもち=藤原叙用)が、伊勢神宮の役職「斎宮頭」から「齊」、藤原氏から「藤」をとり、斎藤と称するようになったとされる。
 ( 参照 斎藤さんのルーツを探せ! )
美濃齊藤氏はその子孫である。

岐阜には、菅原道真を祭る神社が多い(「八百万の神」の検索結果参照)。

菅原道真の祖父菅原清公(すがわらきよきみ)は、美濃国の少掾(国司の役職の一つ)をしており、菅原氏と美濃とは少なからずの因縁がある上、美濃守護代をしていた美濃齊藤氏は、菅原道真の子孫であり、菅原道真を氏神として尊崇していたためのようである。
岐阜の長良天神神社は、美濃齊藤氏が、菅原道真を氏神として祀る神社である。
長良天神神社HP)
ちなみに、前田利家も菅原道真の子孫と称しており、金沢市の尾山神社において菅原道真を氏神として祭っている。

菅原氏は、天照大御神の二男天穂日命の子孫で、野見宿禰を先祖とする土師氏(はじうじ)の子孫である。大和国菅原邑に住んでいたことから、菅原氏を名乗るようになったとされる。

出雲に菅原天満宮がある。その境内には、野見宿祢の墓がある。
菅原天満宮の社伝によると、菅原道真は、その父・菅原是善が祖先である野見宿祢の墓参りをした際、その案内をした娘を気に入って愛人にし、生まれたのが道真だということである。(よみがえる出雲王朝参照)

京都には、文子天満宮がある。

文子天満宮HPより引用)

道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)が建立したもので、北野天満宮の前身と言われる。道真の父是善が野見宿祢の墓参りをした際、その案内をした娘というのは多治比文子であり、道真の実母ということかもしれない。


2018年10月8日月曜日

織田信長は、日子坐王の子孫であり、神功皇后と戦った忍熊王の子孫か?

福井県には、丹生郡越前町織田という土地がある。
織田は、縄文時代から続く古い土地である。織田という地名は太古から機織が行われていたことと関連があるようで、織部の田があるから織田という地名となったのか。
織田には、越前二宮である劔神社(つるぎじんじゃ)がある。祭神は、素戔嗚尊、気比大神、忍熊王(おしくまのおう)である。

劔神社の由来は、そのHPから引用すると
  • 劔神社の創祀については、第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷の北に聳える座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、その後、第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣という人が和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきたことが縁起として伝えられている。
  • また、神功皇后摂政のころ、第十四代仲哀天皇の第二皇子・忍熊王が素盞嗚大神を現在の織田の杜に遷されたことを、座ヶ岳の故事として次のように伝えている。
とのことで、忍熊王は、公式には、殺されたことになっているが、織田の地で生きいて地元民から神として祭られるまでになったということになっている。

織田信長を輩出した織田氏は、代々劔神社の神官をしており、斯波氏が越前の守護職をしていた際に、劔神社の神官の子・常昌が斯波氏の家臣となり、出身地名から「織田」を名乗るようになったのが織田氏の始まりとされている。そのため、織田氏の家紋は劔神社の家紋と同じ木瓜紋(もっこうもん)である。

織田信長は、劔神社を氏神として信奉していたという。

忍熊王は、仲哀天皇と大中姫命(彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)または大江王の娘)。彦人大兄命は、景行天皇と伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)の子である。伊那毘能若郎女の姉は、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)である。播磨稲日大郎姫は、櫛角別王(くしつのわけのみこ)・大碓命(おおうすのみこと)・小碓命・倭根子命(やまとねこ)・神櫛王(かむくしのみこ)を生んでいる。

伊那毘能若郎女と播磨稲日大郎姫の父は、兄の吉備津彦命(大吉備津彦命)とともに岡山県総社市周辺で鬼の温羅を討ったという伝説が知られる稚武彦命(わかたけひこのみこと)(孝霊天皇の子)である。母はよくわからないが、景行天皇が播磨加古川に行って二人を妻にしたとあり、播磨稲日大郎姫の墓が加古川にあるので、加古川の豪族の娘と思われる。

成務天皇の時代に角鹿国造に定められた建功狭日命(たけいさひのみこと)は、稚武彦命の孫とされる。越前町は角鹿国に含まれる。その子孫は代々気比大社の社家を務めている。

なかな理解が難しいが系図を書くとこんなかんじか。 



神戸区垂水にある五色塚古墳(ごしきづかこふん)は忍熊王が神功軍を迎え撃つために建てたと言われている。忍熊王のひい爺さんは播磨の豪族らしいのでこれができたということか。また、忍熊王が越前に逃れることができたのも、おじさんの建功狭日命が角鹿国造をしており、かくまってもらった。そのため神功皇后らも殺すことができくなったということなのかもしれない。

気比大社の本来の祭神は、都怒我阿羅斯等と言われており、建功狭日命は都怒我阿羅斯等の子孫であると言われているので、そうだとすれば????の部分の母方に都怒我阿羅斯等の子孫が入ることになるのだろう。

織田信長が滅ぼした越前新倉氏は、日子坐王の息子である狭穂彦王の子孫日下部氏の一族である。朝倉氏及び日下部氏の家紋は、三ッ盛木瓜であり、織田氏の家紋はこれをまねたものと言われている。織田氏は、日下部氏と同族であり、日子坐王の子孫なのか?


(参考)
織田町
歴史のある繊維の街福井
天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)
【古事記】香坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の反逆
せんせん 五十狹茅宿禰
角鹿国造

大神神社の祀神は事代主。長髄彦はその子孫か。

陶津耳命(すえつみみのみこと)、別名大陶祇命(おおすえつみのみこと)、三嶋湟咋(みしまみぞくい)とも呼ばれる。

陶津耳命は、陶邑窯跡群がある茅渟県陶村を支配地とする須恵器製作職人集団の族長とみられる人物である。

陶邑には、陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)がある。主祀神は、高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)、八重事代主命、菅原道真公である。摂社に大田田根子も祀られている。

陶荒田神社は、陶津耳の子孫である荒田彦宿禰(あらたひこのすくね)創建とされている。荒田彦宿禰の先祖は、剣根命(つるぎねのみこと)、その父は、玉依彦(たまよりひこ)、その父が陶津耳命とされる。

陶津耳の父は天押立命(あめのおしたてのみこと)、その父は伊久魂命(いくむすびのみこと)、その父が高魂命(高霊産巣日命)である。

陶津耳には、息子の玉依彦(たまよりひこ)のほかに娘の活玉依媛(いくたまよりびめ 玉櫛媛ともいう)があり、活玉依媛は、三輪山の神(古事記によると大物主・大物主=事代主)との間に天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと 一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)を生んでおり、その子孫が大田田根子である。
活玉依媛は、事代主との間に媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んでおり、媛蹈鞴五十鈴媛命は皇祖神武天皇の皇后となっている。

活玉依媛(玉櫛姫)と媛蹈鞴五十鈴媛命は、大阪市茨木五十鈴町の溝咋神社において主祭神として祀られている。
茨木市によると
  • 溝咋神社はもともと、上の宮と下の宮に分かれていましたが、現在あるのは下の宮で、上の宮は、安威川を隔てた北側にありました。日本書紀神武天皇記によりますと、主神の一人である五十鈴媛命は、わが国初代天皇である神武天皇の皇后になられた人と記されています。また、玉櫛媛命は五十鈴媛命の母で、父は、この三島溝咋耳命で、広くこの地域を治めていた人であります。元来、溝とは“水"が命であり、耳は“長"を表すことから、溝咋耳とは、農業神の意味を持っています。この溝咋耳神が、いかに信仰されたかは、今も立派に残されている松並木の馬場先を見ても明らかです。(茨木市HPから引用
とされている。陶津耳命は、もともと、溝咋神社周辺を支配地にしており、その子孫の劔根命が陶荒田神社付近に移住したとみられる。

天日方奇日方命は、鴨王(かものきみ)とも呼ばれ、三輪氏・賀茂氏の祖とされる。神武天皇2年2月2日に宇摩志麻治命とともに申食国政大夫(けくにのまつりごともうすまちぎみ)に任命されたとされる。天日方奇日方命と宇摩志麻治命はいずれも事代主の息子又は孫であり、神武王朝の政治を取り仕切ったことは注目に値する。


玉依彦の息子の剣根命(つるぎねのみこと)は、神武2年、葛城国造に任命されている。
また、陶荒田神社を創建した荒田彦宿禰の娘である葛媛は、武内宿禰の妻となり、葛城襲津彦を生んでいる。

古事記が言う大物主は、大神神社の主祭神である。大物主は、大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」と言われるが、大神神社は、大己貴神(大国主の別名)を配祀している。大国主を大物主として祀り、重ねて大己貴神として祀るというのはおかしな話である。『先代旧事本紀』は、天日方奇日方命の父を八重事代主神としており、日本書記は、父の名は不明だが祖父は事代主神であるとしている。
当初、大物主=大きな物部の主だから饒速日かと考えたが、事代主も物部氏の祖先である。長髄彦は事代主の子。であるならその妹三炊屋媛(ミカシキヤヒメ、三炊屋媛、鳥見屋媛、長髄媛、登美夜毘売、御炊屋姫、櫛玉姫命、櫛玉比女命、櫛玉比売命)も事代主の子だろう。饒速日と結ばれて三炊屋媛が生んだのが物部氏の祖であると宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)である。それなら大きな物部の主は事代主ともいえる。

大神神社の別宮とされている村屋坐弥冨都比売神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は、事代主の妻である三穂津姫命(別名 弥富都比売神)を祭っている。

陶荒田神社は、高魂命、劔根命(つるぎねのみこと)のほかに八重事代主命を祀っている。八重事代主が劔根命の祖先であることを示している。

大神神社は、崇神天皇が祀らせたものだが、崇神天皇は、出雲から神宝を奪っており、疫病がそのたたりと考え、出雲の神を祀らせたと考えればつじつまが合う。

長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったといわれる。
長髄彦は当初饒速日が天下った磐船神社の近くの生駒山山麓を本拠としていたが、神武が大和盆地に侵入した当時は、鳥見山(とみやま)山麓を本拠地にしていたようである(長髄彦の別名はトミノナガスネヒコ)。長髄彦は、殺されたとされているが、実は東北に逃げた又はその兄の安日彦(アビヒコ)が東北に逃げて安部氏を名乗ったとされている。安部氏はその後大和朝廷に組み込まれているが、大和での安部氏の本拠地が鳥見山の山麓にあり今でも安部という地名が残っている。
大神の近くである。纒向遺跡(まきむくいせき)は、長髄彦と饒速日の都であり、それがゆえに大神神社の地に事代主が祭られたとすれが合点がいく。


(参考リンク)
葛城の古代
陶津耳と三輪の大物主
櫛御方命
せんせん 大物主神
長髄彦の後裔とその奉斎神社
出雲王朝の五種の神宝