2018年4月30日月曜日

原島氏は継体天皇・宣化天皇・多治比古王の子孫


原島氏は、丹党の一族であり、継体天皇・宣化天皇・多治比古王の子孫である。
詳細は、秩父と多治比氏の関係を参照。
桓武平氏の祖・高望王の父葛原親王は、桓武天皇と多治比真宗の息子である。桓武平氏は、多治比氏の子孫でもある。(多治比氏に関する情報のまとめ

2018年4月29日日曜日

越智氏について

越智氏(おちうじ)

応神天皇より伊予国小市の国造に任ぜられた乎致命(おちのみこと)を祖とする氏族。


 

 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祖とする。宇摩志麻遅ウマジマジ)系なので物部氏である。

 乎致命は大濱八幡神社に祭られている。大濱八幡神社付近は越智氏発祥の地とされており、越智氏発祥の地の巨大な碑石がある。同神社では、相殿として、饒速日とともに天道日女命(あまのみちひめのみこと・大国主の娘)が祭られている。饒速日と天道日女命の子が天香語山命(あまのかごやまのみこと)、その子が天村雲命であり、海部氏の祖先である(籠神社の説明)。乎致命とは別系列になるので、天道日女命が祀られているのは不可解(本来なら三炊屋媛(みかしきやひめ)でなければならないはず)。


 大三島にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、乎致命が建立した大山祇神を祀る神社で、境内に手植えの楠がある。


 越智氏の系図はここ。大山祇神社の神主は、代々越智氏の子孫が継承している(大祝(おおほおり、三島)氏)

 古事記によると、饒速日は、大山祇の娘神大市比売(かむおおいちひめ)とスサノウとの間の子とされているので、大山祇神社では大山祇を祭っているものと思われる。しかし、饒速日は、瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)のことであり、萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)との天忍穂耳命の子であるので、どこかで混同されているようである。

 宇摩志麻遅が生まれた場所は、伊予である愛媛県東温市の浮嶋神社付近である。宇摩志麻遅は、饒速日命長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生んだ子である。
 宇摩志麻遅が死亡したのは、島根県太田市の物部神社付近。

 物部氏の奈良での拠点は天理市の石上(いそのがみ)神宮付近である。
 石上神宮のある布留町一帯には布留遺跡がある。

 越智氏の子孫には、河野氏矢野氏、伊予橘氏三島氏新居氏伊予今井氏土居氏(桓武平氏の土肥氏とは別)がある

 かの伊藤博文は、越智氏の子孫であり、大濱八幡神社には伊藤博文の石像が建設されている(【越智宿禰姓 拝志(林)氏(伊藤氏)系図】)。

2018年4月26日木曜日

土肥氏について

土肥氏は、桓武天皇の子孫。桓武平氏。



小早川氏は、土肥氏の分家である。
似たものに土居氏があるが、河野氏の分家であり、別系統。

 桓武天皇は、多治比長野(たじひながの)の娘多治比真宗(たじひのまむね)との間に葛原親王(かずわらしんのう)をもうける。
 葛原親王の三男、高見王(たかみおう)の子、高望王(たかもちおう)は、 宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望を名乗った。昌泰元年(898年)、高望は上総介(上総国(かずさのくに)の実質的な長官)に任官。長男国香(くにか)、次男良兼、三男良将(よしまさ・この子が平将門である)を伴って任地に赴く。しかし、その側室の子良文は従わず、延長元年(923年)、醍醐天皇から「相模国の賊を討伐せよ」との勅令を受けて東国に下向した。
 その平良文の子孫、平宗平(むねひら)は相模国余綾郡中村荘(現・神奈川県小田原市中村原、中井町中村付近)の領主となり、中村氏を称するようになる。その二男、実平(さねひら)は、中村党をひきい源頼朝の挙兵に参戦、相模国土肥郷を有し、土肥を名乗るようになる。
 土肥実平の子・遠平は、土肥郷の北部・小早川(現在の神奈川県小田原市早川付近)に拠って小早川の名字を称し、平氏討伐の恩賞として平氏家人沼田氏の旧領であった安芸国沼田荘(ぬたのしょう、現在の広島県三原市本郷町付近)の地頭職を拝領し、これを譲られた養子・景平(清和源氏流平賀氏の平賀義信の子)が、安芸国に移住した。
 建永元年(1206年)、景平は長男の茂平に沼田本荘を与え、次男の季平には沼田新庄を与えた。茂平は承久の乱で戦功を挙げ、同国の都宇荘(つうのしょう)・竹原荘(たけはらのしょう、どちらも現在の広島県竹原市周辺)の地頭職を加えられた。