2016年6月30日木曜日

宇佐神宮について

欽明天皇(539年即位)は、手白香皇女(たしらかのひめのみこ)と継体天皇の息子である。

応神天皇の皇統は武烈天皇で途絶えたが、福井県から応神天皇5代の孫男大迹王(ヨホド)を武烈天皇の姉と手白香皇女と結婚させ、継体天皇とした。
当初は武烈天皇の後を仲哀天皇5代の孫倭彦王(やまとひこおう)につがせようという動きがあったが、行方不明となっている。

継体天皇と手白香皇女の子が21代欽明天皇である。欽明天皇の舅は、蘇我稲目である。蘇我稲目は、宣化天皇元年(536年大臣となり、欽明天皇が即位すると引き続き大臣となり、娘の堅塩媛小姉君を天皇の妃とした。堅塩媛は7男6女を産み、そのうち大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位している。小姉君は4男1女を産み、そのうち泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位している。

蘇我稲目は、応神天皇と関係が深く、その実の父親ではないかと噂される武内宿祢の子孫である。
応神天皇の母は、神功皇后。神功皇后は、本名は息長帯比売命(おきながたらしひめ)と言い、息長宿禰王葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ・垂仁天皇3年に渡来した新羅王子である天日槍の子孫とされる)の娘である。

蘇我稲目は、欽明29(568)年、宇佐に太田田根子の末裔大神比義(おおがのひぎ)を派遣し、宇佐神宮に八幡神(応神天皇)を祭らせた(なお、この際、物部系の田部氏も派遣されている。田部氏から分かれた一族に土持氏がある。)。
宇佐神宮は、それまでは、素戔嗚尊の長男である五十猛(いそたける)の子孫辛島氏比売神を祭っていた。幸島氏は、その後宇佐神宮の実権を失い、大隅の隼人の乱平定後、宇佐人が大隅に大量移住した際、大隅に大隅正八幡宮(現在の鹿児島神宮)を創設。これが本社だと主張、宇佐八幡宮と戦いを繰り広げることになる(参照)。

宇佐のある豊前は、高皇産霊神(たかみむすび、高木神)の勢力地であり、その娘、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと・萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)ともいう。)の下に天照大神の子天忍穂耳命が婿入りしている。その二人の子が天火明命瓊瓊杵尊である。

宇佐は、天火明命瓊瓊杵尊の生地又は母親の実家のある地ということになる。

神武天皇は東征の際、宇佐により、その地を治める高皇産霊神の孫、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の下を訪問し、天野小屋根に宇沙都比売をめとらせている。
神宮皇后も東征の際、宇佐に赴いている(神功皇后伝説)。宇佐神宮周辺で売られている宇佐飴は、神功皇后由来のものである。

大友宗麟


大友宗麟は大友能直(よしなお)を祖とするが、能直の母は波多野経家の娘。秦氏の子孫である。

また、大友氏は、現在の滋賀県大津市穴太・南滋賀・滋賀里付近に居住した漢系渡来人とされている(大友村主)。大友皇子の主たる支持勢力だったと思われる。

もともと豊前・豊後の地は、秦大国と呼ばれており、中国系の渡来人が多く居住していた土地であり、秦氏の支配領域であった。鎌倉幕府が、秦氏の子孫である大友氏を豊前・豊後の守護としたのは、そのような因縁があったからだと思われる。