2018年7月7日土曜日

あまり知られていない岐阜の重要史跡メモ

飛騨=高天原
 飛騨伝承によると、飛騨=高天原とされる(日本人のルーツ飛騨)。

  • 高天原は、1か所のことを指すのではなく、高地盆地を本拠とする縄文時代から続く有力部族の連合体を意味しているように思われるが・・・。飛騨はその中心であった可能性がある。
飛騨一之宮は、水無神社(みなしじんじゃ)である。

 水無神社のご神体は、その近くの位山(くらいやま)だ。
 位山には、神武天皇が神から王位を授かった場所との伝承がある。
 位山にはイチイの原生林がある。太古から、新しい天皇が即位すると、位山のイチイで作った笏が朝廷に献上され、即位の礼で使用されている。なんと、令和の今上天皇にも献上されている。
            
 ※パワースポット飛騨の霊峰位山


南宮大社地図
美濃国一之宮。金山彦を祀る。創設は神武天皇の時代にさかのぼる。古くは仲山金山彦神社といわれ、美濃国府が置かれていた府中(垂井町)に祀られていたとされる。現在地の二キロほどのところである。崇神天皇のとき、現在の場所に移り、国府の南に位置することから、南宮大社と呼ばれるようになったと伝えられる(南宮大社HP)。
 金山彦は、神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)とともに鉱山の神として信仰されている。
 金山彦は、美濃の国守であり、中山道を開いたとされる(ホマツタエから引用、「濃尾両国通史」にも美濃の祖伸とある)。
 一説に、古代(古墳時代)青銅器の部族を渡来系の鉄器・鉄剣を持つ部族が戦力で青銅器部族を圧倒して打ち破った。奈良・倭国部族に属した鉄器・鉄剣を製造出来る「金山彦命」は「戦で破れない」の代名詞となり、後に「不破」の姓を賜った・・とある。金山彦命(一族)は後年「不破の関」の関守となり、不破郡関ケ原から垂井・大垣・安八・神戸・養老・墨俣にいたる広範囲を治める見野命(美濃領主)として、現在の岐阜県 西濃地域を領地としていたとされる(不破姓の由来)。
 天津国玉(アマツクニタマ)は、金山彦の子である(引用ホマツタエ)。
 天津国玉の子が天若日子(アメワカヒコ)。
 南雲大社は、金山彦は天照大御神の兄であるとしている。
 不破には、太古に鉄を産出した金生山(かなぶやま)がある。
 その近くには昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)がある。
その上に登ってみてほしい。冬には、伊吹山から、立っているのが困難なほどの強風が吹きつけてくる。たたら製鉄に最適の風である。

〇喪山(もやま)
 天若日子は、高天原を裏切ったとして、高御産巣日神に射殺されている古事記の記述・・言霊より)。阿遅志貴高日子根が天若日子の喪屋を剣で切り、足で蹴飛ばし、美濃国藍見河の河上まで飛んで喪山となったとされているが、その場所は、美濃市の大矢田神社の地と比定されている(地図)。
 
 大矢田神社の創建は孝霊天皇の時代。深山に悪竜が棲み付き、困った里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。 その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ、悪竜を退治してくれた。平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。
 その摂社喪山天神社は、もともと大矢田神社の地にあったのを移転したものとされる。
 その社伝によると、天照大神に豊葦原中国の平定の為遣わされた天若日子命は、大国主命の娘下照比賣命を娶り、大矢田の里に到り田畑を開き、人民を繁殖してこの地に住んだとされている。

 その近くには天若日子の妻である下照姫をまつる上神神社がある(地図)。 社由緒書きによれば、下照比売と天稚彦命は力を合わせて中津国の平定に大きな功績を残し、この里にお住居になつた神と伝えている。
 さらにその近くには真木倉神社がある(地図)。天若日子と下照姫の子である御手洗姫命(みたらいひめのみこと)の生誕地とされており、御手洗姫命が主祭神として祀られている(飛騨*美濃*尾張∞火と水の調和コミュの大矢田の喪山伝説)。
 なお、垂井町の葬送山古墳が喪山との説もある(KISSOこぼれネタVOL.64)。

日子坐王の墓地図
 日子坐王(ひこいますのおう)は、旦波の国で玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」後、美濃国各務(かかみ)郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくし、この地で死亡したとされる。その子の八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)=神大根王(カムオオネノミコ)が御陵を清水山の中腹に築いた(引用 レッツ不思議マガジン)。
 日子坐王は、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛命(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子である。

伊波乃西神社(いわのにしじんじゃ)(地図
 日子坐命とその子の八瓜入日子(神大根王)を祀る。近くに日子坐王の墓がある。
 神大根王は、五十瓊敷入彦の祖父丹波道主の弟であり、三野(美濃)本巣国造の祖。長幡部連の祖。
 神王根王は、本巣市の神王神社 (こうのうじんじゃ)に祭られている。この付近が本拠地であったらしい(地図)。

縣主神社(あがたぬしじんじゃ) (地図
 日子坐王を祀る。当地を治めた鴨県主が祖先の彦坐王(=日子坐王)を祀ったものとも、彦坐王がこの地にやってきて治めていたのだが、その子孫が県主となり創建したともいわれる。
※神大根王の子孫・長幡部連関連
 長幡部神社 埼玉県児玉郡上里町長浜
 長幡部神社 (常陸太田市)

伊奈波(いなばじんじゃ)神社
 日子坐王のひ孫である五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)を祀る。
 社伝によると五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたとされる(wikiより引用)。
 なお、現在ある社地は齊藤道三により移転されたもので、もともとは稲葉山の丸山付近にあったとされる(丸山神社)。
※五十瓊敷入彦命
 父は垂仁天皇(すいにんてんのう・活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと))、母は、丹波道主(たんばのみちぬし)王の娘・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。丹波道主の父は開花天皇子の日子坐王。母は、天之御影神(天津彦根の子)の娘の息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)である。
 景行天皇は五十瓊敷入彦の弟。倭姫は妹。

伊久良河宮(いくらがわのみや)地図
 倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照大神を祀り各地を転々している途中、天照大神天照瑞穂市居倉(いくら)の伊久良河宮に4年間鎮座した。
 元伊勢の場所については、人文研究見聞録が詳しい。


〇両面窟(りょうめんくつ)地図
 両面宿儺(りょうめんすくな)が住んでいたとされる洞窟。近くに飛騨大鍾乳洞がある。
 関市の日龍峰寺(にちりゅうぶじ)は両面宿儺が祠を建立したのが始まりとされる。
 飛騨千光寺地図)には、円空が作った両面宿儺像がある。


〇景行天皇泳宮(くくりのみや)跡 地図
 景行天皇は、景行4年、八坂入彦の娘、弟媛(おとたちばなひめ)を妃にしようと訪れた際の行宮。弟媛にふられたので、代わりにその姉八坂入媛(やさかいりひめ)を連れ帰って妃にした。

八剱神社(やつるぎじんじゃ) 地図
 八坂入彦を祀る。近くに八坂入彦の墓とされる大萱古墳がある(写真)。
 八坂入彦は、崇神天皇と尾張大海媛(おわりのおおしあまひめ)の子。崇神天皇の命令で倭大国魂神を祀ったが髪は抜け落ちて体も痩せてしまい祀ることが出来なかったという渟名城入姫命(ぬなかのいりひめのみこと)は、その妹である。
 尾張大海媛は、饒速日の六世孫建宇那比命(たけうなひのみこと)の娘であり、尾張連の祖である。八坂入彦は、饒速日の子孫ということになる。
 八坂入彦は、尾張より東濃に入り、久々利の地を開拓し、久々利で亡くなったとされる(濃尾両国通史)。

猿投神社(さるなげじんじゃ)地図
 小碓尊(おうすのみこと・日本武尊)の双子の兄、大碓命(おおうすのみこと)を祀る。日本書記によると、大碓命は、父景行天皇から蝦夷平定を命じられたが、嫌がって逃げ隠れたため、美濃国に封じられた。そして大根王(三野国造の祖)の娘の兄比売・弟比売姉妹を妻とし、兄比売とは押黒之兄日子王を、弟比売とは押黒弟日子王をもうけ、押黒之兄日子王は三野之宇泥須和気の祖に、押黒弟日子王は牟宜都君らの祖になったという(本拠地は関市の弥勒寺跡付近)。
 大碓は、猿投山で毒蛇にかまれて死亡したとされ、近くにそのがある。

飛騨一之宮水無神社 地図
 祭神は、御年大神(みとしのおおかみ)=饒速日である。飛騨は古くから饒速日一族の支配地だったことを示している。

養老の瀧 地図
 飲み屋のことではない。元正天王が行幸した折、養老の瀧の水で、傷がなおるわ、白髪が黒くなるわ、若返るわで、驚嘆し、元号を「養老」に改めたといういわくつきの瀧である。霊泉が酒になったという養老の孝子の逸話あり。たしかにこの付近の酒造の酒はうまい(養老乃瀧と酒伝説の真相とは)(美濃菊)。

〇明智城址
 明智光秀は、可児市にある明智城で生まれた(明智城 (美濃国可児郡)参照)。
 明智氏は、清和源氏土岐氏の分家である(明智氏参照)。
 齊藤道三により土岐氏が滅ぼされた後、道三に仕えたが、齊藤義龍により美濃を追われて流浪の身となり、織田信長に仕えるに至った。
 明智光秀は、天王山で死だことになっているが、死んだのは影武者で、本人は、岐阜県山県市中洞に逃れ、荒深小五郎と名乗ってこの地に隠れ住んでいたという伝承があり。光秀の墓がある。