秩父は、旧石器時代からの歴史の古い地域である(秩父市の歴史)。東国では最も古くから大和朝廷の支配が及んだ地域であり、崇神天皇の時代、知知夫国(ちちぶのくに)と呼ばれ、八意思金命(やえおもいかねのみこと)の10世孫の知知夫彦命(ちちぶひこ の みこと)が初代知々夫国造に任命された(国造家一覧参照)。
秩父神社は、知知夫彦命が祖神である八意思兼命を祀ったことに始まるとされ、大神神社とならぶ日本最古級の神社である。
(秩父神社HPから引用)
秩父神社の例祭である秩父夜祭は、知知夫国に知知夫彦が大神を祭ったとされる時代か、それ以前から神奈備山である武甲山への信仰として行われてきたものが起源ではないかと言われる。
聖神社付近には、大野原古墳群がある。築造時期は7世紀後半から8世紀初頭と見られ。聖神社には大野原古墳群出土の鉄刀、鐔、鉄鏃、蕨手刀、円筒埴輪、和同開珎が保存されている。原谷小学校の校庭の円墳からは蕨手刀(わらびてのとう)が発見されており、和銅鉱物館に保存されている。大野原村の氏神愛宕神社は古墳の上に建っている。
多治比氏は、何度か武蔵国の国司となり、9世紀後半に多治比武信が武蔵国に配流され、秩父・児玉を押領。その後、京より下った峯時が、武蔵に居住し、石田牧(今の長瀞町・秩父の牧参照・平安時代は秩父は馬を生産して朝廷に献上していたらしい)別当を兼ねて丹貫主と号し、以後丹治氏と称して、その子峯房以下になって秩父郡の領主として、武蔵7党の一つである丹党となる。
そのうち武州忍領原島村(現埼玉県熊谷市原島)に居住していた一族が地名から原島氏を名乗ることになり、その一部が奥多摩や大野原村に移り住んだ。
丹党の中心となって活躍したのは、現在の秩父市中村に勢力を置いた嫡流中村氏である。
桓武平氏の秩父氏は、吉田を本拠地としている。
桓武平氏は、桓武天皇と多治比真宗(たじひのまむね・多治比嶋の孫)の孫高望王が、889年、宇多天皇の勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望(たいらのたかもち)を名乗ったことに始まる氏族であり、多治比氏と血縁関係にある。
平高望は898年、上総介に任官し、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴き、在地勢力との関係を深めた。その後、902年、に西海道の国司となり大宰府に居住911年に同地で没した。
高望の三男良将(よしまさ)の息子が平将門である。将門の娘春姫と平忠頼(たいらのただより)(高望王の5男平良文(たいらのよしふみ)の子)の子が平将恒(たいらのまさつね)=秩父氏(秩父平氏)の祖。